二六世 機參學禪大和尚
 文政六年(一八二三)、越後国刈羽郡北鯖石村大字枝村(新潟県柏崎市中田)の入澤家に出生。天保二年(一八三一)六月八日、善福寺(新潟県中魚沼郡津南町上郷大井平)住職大機智乘に就いて得度。当初の法名は、祖傳大禪であったが、のちに機參學禪と改名した。

 弘化四年(一八四七)四月五日、同国南蒲原郡矢田村(大面村とも)(新潟県三条市矢田)の光照寺一八世として晋山した。機山學禪との記述もあるが、正確には機參學禪である。

 雙林寺文書「三法幢会地入院披露年月留」には、安政三年(一八五六)一二月二八日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。仁叟寺二六世として光照寺より転住した際、徒弟二人を引き連れてきたという。兄弟子が禪海(のち仁叟寺二七世)、弟弟子が海雲(のち仁叟寺二八世)であった。

 学徳ともに優れた僧として高名であり、とくに上州打ちこわし騒動の際の逸話は有名で、地域の偉人として崇められている。

 幕末から明治維新にかけての激動期の住職をつとめ、また打ちこわし騒動には的確な判断で仁叟寺を護った。その学徳ゆえ、英明で知られた、ときの吉井藩主松平信發とも交流があったといわれている。信發と懇意であった幕府海軍奉行であった勝海舟が当寺へ来山し、扁額および書を数点残しているのも、その縁による。

 仁叟寺の寺子屋が神保小学校(現吉井町立多胡小学校)として開校した際に、學禪は、その初代校長にも就任している。

 また、神保村役場も設立当初は仁叟寺山内にあり、多くの人々の尊崇を受けていたという。

 安政四年(一八五七)、仁叟寺の殿鐘を鋳造した(太平洋戦争の際に供出を免れたもので、吉井町指定重要文化財)。銘には、経文のほか施主名が彫られている。

 また、元治元年(一八六四)には、開山堂を再建した。慶応年間(一八六五〜六八)に、開山堂の天井絵を地元の有名画家である應處斎淵臨に依頼している。

 明治六年(一八七三)から始まった地租改正令により、仁叟寺の寺領は悉く上地となった。學禪はその寺領の回復を発願したが、結核を患い、後任を禪海とし、同四年に神保の榊原家所有の観音堂へ隠居したと伝えられている。なお、寺領の回復は遺弟の禪海が果たした。

 明治六年九月一九日、遷化。享年、五〇歳。在山期間は、約一五年であった。