二一世 東翁豐運大和尚
 松源寺(神流町魚尾)過去帳によると、二一世豐運は、甘楽郡山中魚尾村(神流町魚尾)の黒澤家に誕生。

 末寺である八束山観音寺一五世をつとめ、のち仁叟寺二一世として晋山した。雙林寺文書「三法幢地入院披露年月留」には、天明八年(一七八八)五月二九日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。先代二〇世賢高は、同年四月一九日に遷化したため、その後住として晋山したと考えられる。

 「享和元辛酉年(一八〇一)三月日」付の文書に、「仁叟寺豊運」とあり、酒造をしていないということを寺社奉行に報告している。

 豐運代の寛政三年(一七九一)、外護者である溝口豊前守信勝の百回忌が、当寺において厳修されている。溝口家は、その後も明治維新期にいたるまで当寺に付け届けを行い、先祖供養を行っていた。

 また、寛政九年(一七九七)四月に、「釈迦誕生図」および「釈迦涅槃図」の修復作業を行っている。同画幅は対になっており、貞享二年(一六八五)一〇月二六日、一二世賢虎代に寄進された。それぞれ施主があり、寄贈は神保の関口家、修復は神保の神保家が行っている。現在でも、二月一五日の涅槃会、四月八日の降誕会では、同軸が本堂脇に掲げられ、伝統の行事を行っている。

 同年一二月には、本堂の彫刻欄間を新添している。

 本堂の大広間入口左右にある、彩色仕上げの龍の彫刻欄間である。銘に、「寛政九丁巳歳十二月 日本群馬郡室田大工清水谷仁右衛門(印)仁叟二十一世東翁代新作之」とある。

 豐運代には、古墳時代の古剣大小一対が寄進されている。大剣は長九八cm、小剣は長三八cmである。出土場所は、西高原(吉井町大字高字高原)であり、古墳の多くある地域である。同古剣一対は、桐箱に収納され、その箱に由来が墨書されている。

 また、本堂須彌壇上に安置されている日パイ牌に、「文化三年(一八〇六)七月初改写」と銘がある。日パイ牌は月パイ牌と対になっており、大きさも一六〇cmを越える巨大な位牌である。二一世豐運の代で書き改められたといえる。

 雙林寺文書「三法幢地入院披露年月留」には、文化一一年(一八一四)八月二〇日に、次代二二世高天が晋山の披露を雙林寺に行っている記録があるので、豐運の住職在山期間は二六年ほどであった。

 豐運は、退董してから一〇年ほど経過した文政八年(一八二五)一月二四日に遷化した。享年、八六歳。「遷化而讀經二千部」との記述が過去帳にあり、弟子たちによって手厚く葬られたと推察される。

※シンの字は
※パイの字は