七世 實山宗貞大和尚
 七世宗貞代の慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府を開き、以降明治時代にいたるまで、約二七〇年ほど続く江戸時代が始まる。

 慶長七年(一六〇二)一〇月二二日、初代吉井藩主で当寺外護者の菅沼定利が逝去した。死後、家督は養嗣子の奥平忠政(菅沼忠政)が継いだ。戒名は、●興院殿廣山玄太大居士。仁叟寺に葬られたとの記述が、『中津藩史』・『作手村史』などに見られ、位牌も当寺開山堂に安置されている。没後五〇年たって、吉井町吉井に一〇世牛雪により玄太寺が開かれ、一五〇年後に、三河国新城藩(愛知県新城市)五代藩主菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移した。墓石塔は現在、吉井町の史跡に指定されている。

 また、慶長一三年(一六〇八)二月八日、同じく外護者であり当地旗本の長谷川讃岐守正吉が逝去した。墓所は当寺にあり、長谷川家の大先祖として、明治維新まで子孫が付け届けを江戸より行った文書が多数残されている。戒名、祖庭院殿趙英宗伯大居士。

 寛永一六年(一六三九)三月九日には、嗣子の長谷川淡路守も隣に葬られた。没後約二五〇年後の文久三年(一八六三)に、子孫によって墓石塔前に石燈籠が一対建立された。

 また、当寺外護者である奥平信昌・亀子夫妻の石殿が建立されたのも、この時期である。

 宗貞代には、菅沼・長谷川・奥平といった仁叟寺に縁のある外護者の帰依を受け、供養を行っている。

 元和六年(一六二〇)六月九日、遷化。