二八世 卍成海雲大和尚
 弘化四年(一八四七)一二月一〇日、新潟県南蒲原郡大島村代官嶋(新潟県三条市大島)の渡辺佐七の次男として誕生。渡辺家の先祖は、その地の代官をつとめていたという。

 文久元年(一八六一)八月二二日、光照寺住職横山呑海に就いて得度。のち、學禪が仁叟寺二六世として上州に入ると、兄弟子の禪海(のち仁叟寺二七世)とともに随行した。明治五年(一八七二)夏、甘楽郡吉田村(富岡市南蛇井)の最興寺住職下野碩童に就いて立職。同七年三月二三日、仁叟寺二七世禪海の室に入り嗣法した。同九年(一八七六)四月一〇日、神川村万場(神流町万場)の慈恩寺の二一世住職となる。そのときに、長男である石橋(のち仁叟寺二九世)が誕生している。

 明治三一年(一八九八)六月一五日、龍源寺へ二四世として晋山。二六年に起きた龍源寺の火災後であったため、その再建に尽力した。兄弟子である禪海(仁叟寺二七世)を補佐するが、同三七年より禪海の体調不良のため寺務を担当した。翌三八年一月二〇日に、禪海が遷化する。享年、六九歳。その後、同年八月九日に、仁叟寺二八世として晋山した。

 仁叟寺住職としては、隨意會地いわゆる格地への昇格を果たした功績が挙げられる。吉井宿の大豪商であった秋山三右衛門昌敬(秋山豊次郎)の寄進を受け、仁叟寺は大正九年(一九二〇)二月二八日に格地昇格を果たした。翌一〇年三月には、本堂前に昇格記念碑を建立した。題字は、曹洞宗管長であり大本山總持寺貫首の新井石禪によるものであり、裏面には寄進者の芳名が彫られている。なお、秋山豊次郎には、この功により中興開基号が贈与された。

 隨意會地昇格後の大正一一年(一九二二)七月一五日、結制修行を行っている。首座を、宗永寺従弟の浦野洞學がつとめた。洞學はのち、善勝寺(高崎市西横手町)に晋山している。ほか、法嗣である龍源寺住職雲巖石橋(のち仁叟寺二九世再中興)の師僧であることはもちろん、大中寺御供正雄(栃木県下都賀郡大平町)の師僧ともなっており、弟子の教化にも力を注いだ。

 大正一三年(一九二四)七月、体調不良のため、住職を法嗣石橋に譲り退董。同年一一月二五日に、石橋の晋山式、および仁叟寺開山四百年記念大法要とあわせて退董式を行った。

 大正一五年(一九二六)一一月二〇日、遷化。享年、八〇歳。