二五世 鐡岩祖英大和尚
 慈恩寺一六世(神流町万場)、仁叟寺の孫末寺である宗泉寺一九世(安中市野殿)をつとめたのち、当寺二五世として晋山した。鐡巖祖英とも表記されるが、鐡岩祖英が正しい。

 雙林寺文書「三法幢地入院披露年月留」には、天保一一年(一八四〇)一〇月三日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。同一三年(一八四二)五月七日には、「神保村仁叟寺鐡岩」から「双雙林寺御役寮中」へ宛てた文書が残されている。祖英は、天保年間から二六世學禪が晋山する安政三年(一八五六)までの約一六年ほど、住職をつとめていたと考えられる。

 天保一四年(一八四三)八月、火災に遭った末寺の八束山観音寺の再建願状を雙林寺に出している文書がある。観音寺はその後再建されたが、一九世覺園大壽が、万延元年(一八六〇)四月二六日に遷化したのち、無住寺院となった。明治時代初期に再度火災に遭い、本尊などを仁叟寺に移した。明治一八年(一八八五)一二月の大火により、残存建築物全て再焼失となり、廃寺となった。同三五年(一九〇二)秋には、千手観音像はじめ脇侍仏六体を、安置する小堂の寄進勧化を行っている。

 また、二五世祖英の在山中である嘉永年間(一八四八〜五四)に、鐘楼堂(吉井町指定重要文化財)の改修工事が行われた。嘉永五年(一八五二)に出された「鐘楼化旅(鐘楼堂建立にあたっての勧化帳)」によると、多くの檀信徒はじめ地域の方々の浄財を募り、同堂が建立されたことがわかる。同勧化帳には、「嘉永五子年孟春日(一八五二)三月仁叟寺化主鉄鐡岩」とあり、当時の吉井宿の屋号がすべて記録されている貴重な文書でもある。なお、鐘楼堂の改修は、翌六年に完成をみた。また、同年には鐘楼堂の天井絵を、地元の有名画家である應處斎淵臨が奉納した。

 ほか、嘉永六年(一八五三)一〇月には、開山堂にあるケイ子を新添している。現在においても開山堂において使用されているが、当時は本堂にて使われていた可能性が高い。代官家である小林新吾正喜によって書かれた銘があり、「清涼院一葉妙秋大姉 施主 神保庫之助 寒巖霊樹信士 施主 町田甚兵衛 銅鉢一口神保町田キャク斤寄納近□シ故 轉遷鬻市余深憂之因出金若干購求以 献冀継先寄之志而資祖先之冥福云 嘉永六年癸丑十月」とある。

 安政三年(一八五六)に退董し、万延元年(一八六〇)一二月一日、遷化。

※ケイの字は
※キャクの字は
※シの字は