一九世 融山高祝大和尚
 一九世高祝は、甘楽郡神原村(多野郡神流町神かケが原はら)の出身。末寺である向陽寺一三世のほか、東福寺六世(神流町神ケ原)をつとめた。東福寺から仁叟寺、そしてのち向陽寺の住職をつとめた。「宝暦五乙亥年四月七日」に、「上野国多胡郡神保村 仁叟寺融山」より、「織田兵部大輔様内 山本甚右衛門殿 白石徳兵衛殿」に宛てた前述の書状によると、「差上申宗旨一札之事 一、当寺之儀者 上野國利根郡白井村雙林寺 末寺紛無御座候 先住智貫 戌十二月廿三日遷化 仕候付 本寺依差図 拙僧 亥二月廿七日 入院仕候 拙僧生国者 当国甘樂郡山中神原村而御座候 幼少而由緒御座候候而 当国甘樂郡神原村 東福寺直弟罷成廿年以来 偏歴仕 夫當寺入院仕 曹洞宗御座候處実正也(後略)」とあり、甘楽郡神原村の東福寺に二〇年ほど仕えてきたが、本寺の指図により仁叟寺に入院(晋山)することになった旨を報告している。

 ここには、向陽寺についての記述はなく、また宝暦一〇年(一七六〇)一一月一一日の仁叟寺退董後から天明六年(一七八六)九月一八日遷化まで、二六年もの期間があることから、順番が上記のように確定される。また、龍源寺・観音寺・玄太寺といった末寺から、仁叟寺へ晋山するといった従来の流れが、一時的であるが変わったことを示している。高祝もその点は十分に承知をしており、引き続きの文章では、「曹洞宗必定之申分急度可仕候」といった、仁叟寺晋山についての決意表明を行っている。

 『寳積寺掛錫牒』によると、「山中東福寺喝穏長老弟子 同秋掛申冬首座 延京元(享)子冬東福寺住職 高祝」とある。これによって高祝は、寳積寺(甘楽郡甘楽町轟)二四世大龍黒音代に、同寺に安居修行し首座をつとめ、延享元年(一七四四)冬、東福寺六世として晋山したことがわかる。  のち高祝は、宝暦五年(一七五五)二月二七日に仁叟寺に晋山した。雙林寺文書「三さん法ほう幢どう会え地ち入にゅう院いん披ひ露ろう年ねん月げつ留どめ」には、同年三月五日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。同文書は、天保一二年(一八四一)仲夏に雙林寺四三世雙海金龍代に調査がなされ、知客寮の仏山和尚が調べ、奈良氏が書いた。明治四年(一八七一)に書き改められ、現在雙林寺に保管されている。仁叟寺では、一九世高祝代から二七世禪海代までの記録がある。  なお、「三法幢地」とは曹洞宗で特別に格式を持つ寺のこと指し、「常恒会地」・「片法幢地」・「隨意会地」の三をいう。それぞれ、結制の修行を行う回数で分けられており、一年に夏冬二回行える常恒会地、一年のうち夏冬一回行える片法幢地、三年に一回行える隨意会地とされる。

 宝暦七年(一七五七)夏、仁叟寺本堂須彌壇両脇に掲げられている、木聯一対を新添した。長さ一六〇cmほどの、大きな聯である。曹洞宗復古運動を行い、中興の祖といわれる月舟宗胡の書を陰刻し、白文字にて「無辺風月眼中眼 不尽乾坤燈外燈」とある。裏面に銘があり、「當山十九主融山 寶暦七仲夏」とある。  「宝暦九己卯季仲冬(一七五九)」には、天台宗普賢寺(吉井町多比良)へ、普賢菩薩像の画幅を贈与した記録が、普賢寺文書にある。高祝は、普賢寺の秘仏である普賢菩薩像が亡失してしまったことをうけて、同寺三二世秀順勸海へ、「奥州森山大守松平大學頭従四位上源頼貞公」所蔵の画幅を寄進した。画幅は現存していないが、宗派を超えた住来があったことが推察される。

 ほか、高祝代に「今上牌」とよばれ、天皇陛下を祀る位牌が須彌壇に安置された。表面に「今上皇帝聖化無窮 南方大徳将軍聖衆 大檀那本命元辰星」と彫られており、裏面に「融山代」とある。

 この時期は、仁叟寺山門を建立しており、宝暦一二年(一七六二)の二〇世賢高代に完成した。

 「天祐山月杯シン金牒」によると、「宝暦十季庚辰(一七六〇)十一月十一日」に退董。在山期間は、約五年間。シン金は一一両三分を数え、延宝三年(一六七五)から続く総計は、一二〇両二朱となった。

 また、一一世相朔代から約一一五年続いたシン金牒は、一九世高祝代で終了した。のち、二〇世賢高代の宝暦一二年(一七六二)に山門が完成するが、その資金として、このシン金が使用されたことと思われる。

 次代賢高は、宝暦一〇年(一七六〇)一一月一一日に晋山している。雙林寺文書「三法幢地入院披露年月留」には、同年一一月一九日に晋山の披露を雙林寺に行っている記録がある。そのため、高祝の住職在山期間はおよそ五年であった。のち向陽寺一三世として転住し、天明六年(一七八六)九月一八日に遷化した。

※シンの字は