一八世 祐峯智貫大和尚
 末寺である龍源寺八世を経て、寛延四年(一七五一)四月八日、仁叟寺一八世として晋山。龍源寺住職代の延享三年(一七四六)、現在も使われている殿鐘を鋳造した。

 智貫は、山門を建立したとも伝えられている。しかし、山門が完成したのは、二〇世賢高代の宝暦一二年(一七六二)である。このことは、一八世から二〇世にいたる歴代住職が、山門建立に尽力をし、師僧であり発起をした智貫に、建立主の号を贈ったことを示唆しているものと思われる。智貫は、山門建立を発起した住職とみて相違なく、現在の山門の標識にも、智貫代建立と記されている。

 「天祐山月杯シン金牒」によると、「宝暦五季歳在乙亥(一七五五)三月二十八日」に退董とある。智貫は、その前年四年(一七五四)一二月二三日、遷化とあるため、時期的に矛盾があるが、向陽寺文書および仁叟寺過去帳には、「先住智貫 戌十二月廿三日遷化」とある。宝暦一三年(一七六三)一二月二三日遷化、との記録もあるが、宝暦一二年の山門完成にあたり、その建立主となっているため、後世の者が誤ったものと思われる。突然の遷化であったため、次期住職一九世高祝が翌年二月二七日に晋山したことが、「宝暦五乙亥年四月七日」に、「上野國多胡郡神保村 仁叟寺融山」より、「織田兵部大輔様内 山本甚右衛門殿 白石徳兵衛殿」に宛てた書状(向陽寺文書)に見える。

 智貫の在山期間は、約三年間半。シン金は二両二分を数え、延宝三年(一六七五)から続く総計は、一〇八両一分二朱となった。のち二〇世賢高代の宝暦一二年(一七六二)に、山門が完成するが、その資金としてこのシン金が使用されたと思われる。

※シンの字は