一一世 眼國相朔大和尚
 一一世相朔は、末寺である龍源寺三世、八束山観音寺(吉井町神保)二世、玄太寺二世、松林寺二世を、それぞれつとめているが、仁叟寺晋山の前後は不明である。

 相朔は、「延寶三乙卯天夾鐘十一覚(一六七五年四月一一日)」より、「天祐山月杯シン金牒」を作成し、以降一九世高祝にいたるまで、シン金を積み立てた。相朔代から約一一五年続いたシン金牒は、一九世高祝代の宝暦一〇年(一七六〇)一一月一一日まで続き、総計は一二〇両二朱となった。次代二〇世賢高代の宝暦一二年(一七六二)に山門が完成するが、その資金として、このシン金が使用されたと思われる。シン金は四両一分を数え、次代の一二世賢虎に引き継いだ。とくに宗門の大本山永平寺三二世貫首大了愚門禅師より、その在任中に、実母である花屋桃春大姉菩提供養として金三両を賜っている。禅師の出身地は、当寺大檀那の秋山家であり、実母の戒名は「洞源院殿華屋桃春大姉」と記されている。なお、シン金とは財施のことをいい、寄附金を意味する。

 また、相朔は天和三年(一六八三)に、吉井町長根に松林寺を開いている。開山は、師僧である一〇世牛雪となっているが、牛雪は明暦三年(一六五七)六月一〇日に遷化したため、相朔が勧請開山をしたものと推察される。師僧である牛雪を開山とし、自身は二世となった。同じく牛雪が開いた寺に、玄太寺がある。こちらは、菅沼定利五十回忌を記念し、慶安四年(一六五一)に開かれたと思われる。

 同年には、梵鐘が鋳造され鐘楼堂が建立された。とくに梵鐘は、江戸幕府御用達の鋳い物も師じ椎名守の作であり、太平洋戦争時はその格ゆえ供出を免れ、現在は町の重要文化財に指定されている(梵鐘については「第一三章仁叟寺の伝承」参照)。

 相朔は、寛文三年(一六六三)三月に惣門を建立し、同六年初夏に、欅製の経机を新添している。

 寛文七年(一六六七)、義民として知られる堀越三右衛門らが、江戸に直訴したため刑をうけた。そのため、領主であった旗本の倉橋内匠頭忠勝は、所領を没収された。三右衛門は、刑を受ける前に座敷牢のある菩提寺の仁叟寺に、逃れてきたともいわれている。

 貞享二年(一六八五)一〇月二六日の軸画に、次期住職の一二世賢虎の名前があるので、天和三年(一六八三)、あるいはその翌年の貞享元年(一六八四)に退董をしたものと思われる。

 元禄五年(一六九二)五月一一日、遷化。なお、同七年(一六九四)五月一一日、遷化とする記録もある。

※シンの字は