開山直翁裔正大和尚、二世中興天如全相大和尚
 開山直翁裔正大和尚と、二世中興天如全相大和尚について記述のある、『雙林寺誌』と『仁叟寺過去帳』をもとに考察する。なお、両和尚は、雙林寺の四世と五世である。

(1) 『雙林寺誌』より
四世 直翁裔正大和尚
 延徳元年(一四八九)最乗寺輪番で曇英和尚の名代を勤める。明応六年(一四九七)雙林寺へ進山、同八年(一四九九)十一月四日に、一州和尚の十三回忌法事大結制興行を行った。永正五年(一五〇八)雙林寺を退院、吉井郷(多野郡吉井町)神保の仁叟寺を開いた。同六年(一五〇九)四月二十五日亡くなる。墓塔は雙林寺に移している。

五世 天如全相大和尚
 永正五年(一五〇八)雙林寺へ進山、同六年能登国總持寺住番、同年最乗寺輪番に当ったので、越後春日山前林泉寺龍室和尚に振出し依頼した。同七年(一五一〇)正月に、月江和尚の五十回忌を能州で執行した。三月に、最乗寺開祖百年忌に香儀使僧を差遣し、同年十月、曇英和尚七回忌に、楞厳寺龍室・円通院一翁・長年寺天州・冷松寺日庭・普広寺俊岳・定正院長山・普門院日頃・松月院明甫・玉泉寺大朝・要津院曇芳・林泉寺大愚らが集まって結制興行をした。このことは、龍室和尚より大愚和尚への書状に明白に書いてある。永正十二年(一五一五)退院、翌年四月二十八日亡くなった。

雙林寺遷化年
四世直翁裔正大和尚永正六年(一五〇九)四月二五日
五世天如全相大和尚永正一三年(一五一六)四月二八日

(2) 『仁叟寺過去帳』より
 仁叟寺に残されている記録は、「過去帳」のみである。また寺伝・口伝としても伝わっている。
仁叟寺遷化年
開山直翁裔正大和尚大永三年(一五二三)一月一五日
二世中興天如全相大和尚天文二三年(一五五四)三月一五日

(3) 開山直翁裔正より二世中興天如全相への印いん可か状じょう

 印可とは、師がその道に熟達した弟子に与える許可のことをいう。允いん可かとも書く。その証として作成される書状を、印可状という。いわゆる、「お墨付き」のことである。

 禅宗のほか、武道(剣術・槍術・柔術など)、茶道、あるいは算術などにおいても印可が与えられる。

 仁叟寺には、開山裔正より二世中興全相に宛てた、一点の印可状しかない(向陽寺文書に、四世道巖より五世存珠にあてた印可状が残されている)。明応六年(一四九七)一月五日のもので、当寺に伝わる文書で最も古いものである。なお、「禅相禅師」とあるが全相の誤字であろう。

  (礼紙ウハ書)「直翁大和尚御自筆」
  當門下參盡候也
  涯分高見解不可
  □地畢竟得
  不得真實銀
  山鐡壁
  明應丁巳正月五日
  寶持直翁叟(花押)
  禅相禅師

(4) 開山および二世の遷化年の相違について
 仁叟寺の記録では、開山裔正の遷化は、大永三年(一五二三)一月一五日、二世中興全相は、天文八年(一五三九)三月二八日である。雙林寺では、それぞれ永正六年(一五〇九)四月二五日、永正一三年(一五一六)四月二八日である。以下、その相違について述べる。
 開山直翁裔正、二世中興天如全相の遷化の年代が、仁叟寺と雙林寺とで大幅に異なる。それにより、三世正睦の在山期間も大きく変わる。
 雙林寺の記録では、二世全相の遷化が、永正一三年(一五一六)四月二八日である。また、次代四世道巖が五世存珠に印可状を出すのが、向陽寺文書により天文二三年(一五五四)一二月一三日とわかる。

 それゆえ、正睦は師僧である全相の跡を、遅くとも永正一三年四月の段階で継いでいたと推察される。また、同年には四世から五世へと代わる準備を行っていることから、それ以前に四世道巖は仁叟寺に晋山をしたものと考えられる。道巖が一〇年住職をつとめたとすれば二八年間、二〇年であれば一八年間、正睦は在山したと考えられる。この年数は、一般的な数字であり、整合性が高い。

 仁叟寺の歴史上、重要と思われる年である大永二年(一五二二)は、三世正睦代であったと思われる。この年には多くの制札が残されている。寺伝としての開山年代である大永二年の段階において、既に寺院としての体裁を整えていたと思われる。このように考えるのは三つの理由があり、以下それを述べる。  大永二年には、制札が多く出されている。現在残っているだけで六点あり、差出人はすべて異なる。関東管領の居城である平井城が近くにあったことと、上杉・武田・後北条氏の草刈場であった西上州は、戦略的に重要な地であったことが挙げられよう。そのため濫妨狼藉などを取り締まる制札が、多く出されているが、これは寺院としての体裁が十分に整っていたからといえよう。ちなみに、大永二年以前のものは、前述した永正六年(一五〇九)の印可状のほか、同八年九月に出された制札以外、当寺には残されていない。

 二つ目は、開基との整合性が挙げられる。開基奥平貞訓は、奥平八代貞俊の異母弟であるという。仁叟寺の開基墓地の銘に、「道愛禅門 応永三十二年(一四二五)」とある。実際、奥平時代の仁叟寺が創建されたのは、それ以前と思われる。この時期、三河国(愛知県)へ移って行った奥平宗家と、上州に残った奥平家とに分かれており、奥平貞訓は上州に残った奥平家(のち矢島家)の祖である。それゆえ、古くからの奥平家菩提寺である仁叟寺を神保に移転した際に、上州奥平家の末裔は、貞訓を開基としたのであろう。奥平家としては、貞訓の孫にあたる「東泰禅門」が、神保への移転に合意したものといえよう。  なお、仁叟寺開基墓地にある宝篋印塔の墓石には、「東泰禅門 天文二十三年(一五五四)三月十五日」と刻まれている。この天文二三年は、一二月二三日に四世道巖が、五世存珠に印可状を授けた年でもある。

 最後に、宗門の事情が挙げられる。いわゆる勧請開山などであり、師にその功績を譲ることである。伽藍大改修は大永二年であり、仁叟寺の過去帳での遷化年代は翌三年正月である。開山裔正に配慮をした結果が、仁叟寺と雙林寺の記録が異なる由縁であろう。  このように仁叟寺の開山年代に、相違が生じている。

 神保に移転を果たし、伽藍を一新した時期は大永二年である。しかしながら開山となると、『雙林寺誌』のように永正五年(一五〇八)であるといえる。また、奥平時代の開創を考えると、上州奥平家の祖であり、開基でもある貞訓の没年であり、寺伝として伝わっている応永年間(一三九四〜一四二八)以前であるといえよう。大永二年の制札の存在から考えると、現在地での創建は応永年間頃の信憑性が高いと思われる。
仁叟寺年代
開 創応永年間(一三九四〜一四二八)以前
開 山永正五年(一五〇八)
神保移転?・伽藍改修?大永二年(一五二二)